1973年2月25日発売。
はっぴいえんどの3rdアルバム、そしてラストアルバムである。
すでに解散することが決まっていて、
最後にもう一枚出しておきたいと当時のディレクターが考えていた。
その上で誘い文句となるべく要素として
海外、それもアメリカでレコーディングするということになった。
ディレクターの提案に大滝詠一、細野晴臣、鈴木茂は賛同し、
松本隆はすでに解散が決まっているグループで
わざわざ新しくレコーディングすることに反対した。
この話は松本隆の人間関係や価値観と見ることもできるが
見方によっては松本隆が3人程にはミュージシャンとしてのモチベーションが
なかったと見ることができるのではないかと僕は思う。
この後、ドラムを叩くことを辞め、作詞家に専念することになった歴史から見ると
そう見える。
聴きどころは探せばあるが、
わざわざ探しに行かないといけないくらいのアルバムの完成度で、
全体的にはアルバム全体としてはばらけた印象が強く
楽曲としての水準も収録曲すべてが高いとはいえないと僕は思う。
録音について
アメリカで録音されている。
なんといっても
場所はロサンゼルス、サンセット・サウンド・レコーダーズである。
リトル・フィートのローウェル・ジョージとビル・ペインと
ヴァン・ダイク・パークスがレコーディングに参加している。
ヴァン・ダイク・パークスは「さよならアメリカ さよならニッポン」で作曲に参加している。
当時の16トラックレコーダーで録音されている。
はっぴいえんどは
『はっぴいえんど』は4トラック、
『風街ロマン』は8トラックとなっており
倍々ゲームのようにトラック数が増えている。
当時最先端の録音環境で『HAPPY END』はレコーディングされたことになる。
レコーディングは1972年10月13日から10月18日までの6日間と短く、
1972年当時、アメリカでレコーディングとなる。
物価の違いも含めて、予算的な関係でこれだけ短くなっている。
そこが約1年かけて制作された大滝詠一の1stソロアルバム『大滝ファースト』と
対比しているようである。
大滝詠一の事情
大滝詠一はソロアルバム(『大滝詠一』、大滝ファーストと呼ばれる作品)を
レコーディングし終わった(1972年10月3日)ばかりで、
このアルバムをレコーディングしているときには
まだ大滝詠一ファーストは発売されていなかった。
(1972年11月25日発売される)
そのため結果的には大滝詠一は現地で作曲しなければいけなくなり、
そのことが原因で大滝詠一作曲が少なくなっている。
はっぴいえんどで大滝詠一作曲が少ないことは
このアルバムのクオリティーに影を落としていると思う。
歌詞について
松本隆はレコーディングに参加することに難色を示したが、
自分はドラムに専念して鈴木茂にのみ歌詞を提供することにした。
しかし大滝詠一は作品のストックがなく松本隆に相談することとなった。
結局、松本隆なし崩し的に大滝詠一にも歌詞を提供することになり、
細野晴臣だけが作詞作曲することになる。
その細野晴臣も4では 「inspiration by 松本隆」とクレジットされているように
細野晴臣にも松本隆は歌詞を手伝った形となり
松本隆がはっぴいえんどの大部分の歌詞を手掛けるということは
結果的には変わらずに行われることとなった。
それにしてもこのアルバムについてのWikipediaが充実しすぎていて、
このページが「Wikipediaをなぞっているだけ」になっている。
それだけ、はっぴいえんどがミュージシャン、
それ以上に音楽評論家に好かれているということなのだが
僕は少し神棚として持ち上げすぎなのではないかと思っている。
確かに日本音楽の歴史に大きな影響を与えたのは分かるけれど、
さすがにニューミュージックの開祖で、
まるで日本音楽がこのグループから矢のように一本道で
出来たように語られることはどうかと思う。
特にこのばらけ具合を感じるアルバムを聴くとむしろ、はっぴいえんどが
グループとして限界をもっていて、解散するべくして解散したと実感できる。
1. 風来坊
2. 氷雨月のスケッチ
3. 明日あたりはきっと春
4. 無風状態
5. さよなら通り3番地
6. 相合傘
7. 田舎道
8. 外はいい天気
9. さよならアメリカ さよならニッポン
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