尾崎豊 『街路樹』


街路樹

1988年9月1日発売。
10代の時に3枚のオリジナルアルバムをリリースし、それから3年弱かかっている。
その間に、1年間ニューヨークに過ごし音楽活動停止、活動再開後ライブツアーを行うが体調不良のため中断、
覚醒剤不法所持で逮捕と活動の不調があった。

尾崎豊自身の話題は決して明るくなく、音楽活動は順調に進まなかったが、アルバムの内容は充実している。
10代が終わり、20代になって歌う言葉が見つからず苦しんでいたとされるが
しかしどうしてここにあるアルバム曲は10代の頃に見られない魅力的な表現がある。

吉野金次がミックスとプロデュースを担当。
アレンジは9曲中7曲、樫原伸彦が担当し、コ・プロデュースとクレジットされている。

アルバムクレジットを見ると
アシスタントエンジニア含めて
レコーディング・エンジニアが大勢クレジットされていることからも
レコーディングが長期に渡り難航していたことが分かる。
同時期にシングル
『核』(「核」「街角の風の中」収録、1987年10月1日発売)、
『太陽の破片』(「太陽の破片」「遠い空」収録、1988年6月21日発売)
をリリースしている。
「街角の風の中」「太陽の破片」は曲自体未収録。
「核」はレコーディング、アレンジし直され「核 (CORE)」としてアルバムに収録されている。
「遠い空」はミックスし直されアルバムに収録されている。

またスタジオオリジナルアルバム6作でこの作品だけレーベルがCBSソニーでないため、
ベスト盤やコンピレーションで
このアルバムの収録曲がオリジナル版で収録されることはとても限られている。
そのことがこのアルバムの収録曲の認知度を妨げ、評価されずに至っている原因のひとつと個人的には考えている。

1.核 (CORE)★★★☆
「核」についてテーマを書こうとしたけど、書けなかった、そんなことが感じさせる曲。

アルバムバージョンである。
シングルバージョンが歌唱、アレンジが整理しきれていなかったのに対し、
整理されている。

2.・ISM★★★
スローでヘビーなロックナンバー。
ドラムが遠くにあって、ギターとヴォーカルが近いという距離感のある空間が面白い。

3.LIFE★★★★
アレンジ美しさと少し狂気気味の歌詞、
溶け込んだ魅力を感じる。

4.時★★★★★
サウンドのカッコよさと美しいメロディー、
そして孤独感の伝わる歌詞3点ともに素晴らしい。
最も知られていない尾崎豊の名曲。

5.COLD WIND★★★★
ロックナンバー
ヴォーカルの熱量、
しかし10代の頃のような、迷いなく進んだようなさわやかな疾走感はなく、
ロックナンバーのなかに翳りを忍ばせているところがが10代の3部作にない表現。

6.紙切れとバイブル★★★☆
酒場で歌いそうな曲でこれもこのアルバムにしか感じられない質感をもっている。
当初はこの曲のタイトルがアルバムタイトルになる予定だったのだが、
タイトルがカッコよくて売れてしまうことを嫌がった尾崎豊(できるだけこのアルバムが売れてほしくなかったらしい)が
地味なタイトル「街路樹」に変更したという俗説があるが、本当かどうか。

「街路樹」という名前で良かったと思う。

7.遠い空★★★☆
さわやかさを感じるポップソングだけど、ロックナンバーが続く。

「遠い空」はシングル『太陽の破片』のカップリング曲として収録されていた(ただしミックスは違う)。
となれば『核』のカップリング曲も収録、あるいは差し替えの可能性もあったはずなのだが
おそらく「街角の風の中」でなくこの曲が選ばれたのは
「街角の風の中」だとアルバム全体が内省的すぎる、
「遠い空」だと「COLD WIND」「紙切れとバイブル」から曲調的、
サウンド的に流れができると考えたからだと僕は思う。

アルバムの中で歌詞の内容、曲調ともにもっとも外向きの曲である。

8.理由★★★☆
このアルバムで唯一これまで尾崎豊のアレンジを多数担当していた、
西本明がアレンジを担当している。
だから10代の頃に近い印象になるのかというと、そうならない。

この曲の尾崎豊はロングトーンで音程を外している。
ここまで音程をはずしたテイクがマスターテイクになっているのも
10代3部作のプロデューサー須藤晃不在を感じさせる。

「難解」な言葉がここではサウンドとともに奥行きを持たせている。
サウンドはこの広がりは吉野金次の貢献なのだろう。

10代の3部作と比べると興味深い曲。

9.街路樹★★★★★
この唄の歌詞の表現に途中で人称の呼び名が変わるという問題がある。
唄の最初では「俺」「おまえ」。
途中から「僕」「君」へと変わっている。
このことを不自然や日本語として間違っていると思う人がいる。
そうした理由もあり
尾崎豊トリビュートアルバム
『”BLUE” A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』(2004年3月24日)では
「僕」「君」で呼称を統一している。

しかし僕は人称の呼び名が途中から変わるということは別に不自然と思っていない。
人は例え同じ視線を見ても、感情で見る風景や言葉が変わる。
少なくても僕はこの唄の主人公は感情が揺れ動いて、呼び名が変わったのだと
違和感なく受け入れている。

そんな感情が揺れ動く中で、
しかし最終的にはそれも許容し俯瞰的に見ている「街路樹」の世界。
壮大なオーケストラが導入され大団円で終わることを感じさせる、
それに似あうだけの曲の強度がある。

コメント

タイトルとURLをコピーしました